公演情報

PDF表面:アンネ=ゾフィー・ムター ヴァイオリン・リサイタル

PDF裏面:アンネ=ゾフィー・ムター ヴァイオリン・リサイタル

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“ヴァイオリンの女王”が奏でる華麗にして円熟の音色

アンネ=ゾフィー・ムター ヴァイオリン・リサイタル

タイトル アンネ=ゾフィー・ムター ヴァイオリン・リサイタル
日 時 2013年5月31日(金) 7:00pm開演(6:30pm開場)
会 場 札幌コンサートホール Kitara大ホール
料 金

S \12,000 A \10,000 B \8,000 C \6,000 D \5,000

(会員 S \11,000 A \9,000 B \7,200 CD席は割引なし)

※指定席・税込

※D席売り切れ

出 演 アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン)、ランバート・オルキス(ピアノ)
曲 目
  • ●モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ ト長調 K.379
  • ●シューベルト:幻想曲 ハ長調 D.934
  • ●ルトスワフスキ:パルティータ
  • ●サン=サーンス:ヴァイオリン・ソナタ第1番 ニ短調 Op.75
リンク
コード [Pコード] 189-376 [Lコード] 13707

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2011年“ヴァイオリンの女王”Kitara初登場となるはずの札幌公演は、原発事故の影響によって、まことに残念ながら中止となりました。是非もう一度という多くのファンの皆様の声に応えて、このたび新たなプログラムで札幌初リサイタルが実現いたします。

スイス・バーゼル近郊のラインフェルデンに生まれたアンネ=ゾフィー・ムターは、1979年のルツェルン国際音楽祭でデビュー、この演奏を聴いたヘルベルト・フォン・カラヤンが、翌年にザルツブルグで開催された音楽祭で、ベルリン・フィルのソリストとしてムターを起用、大きな話題となりました。
二人の出会いは運命的ともいえるもので、出会いから13年後に亡くなるまで、カラヤンにとって彼女は、コンサートでも録音においても唯一のソロ・ヴァイオリニストとなります。

音楽上の最大の師であり、大切な後ろ盾であったカラヤンの死を乗り越え、“天才少女”は、“ヴァイオリンの女王”と言われる存在となり、35年もの間、つねに世界のトップ・ヴァイオリニストの1人として活躍を続けてきました。

今回も、伝統的な名曲の演奏と共に、常に新しいレパートリーを紹介してきたムターならではのプログラムが用意されました。まさに“女王”の名に相応しい芸術性とスケールの大きさ、知性と深い情感を併せ持つ歌うヴァイオリンの魅力をじっくりとお楽しみください。

共演のランバート・オルキスは、故ムスティスラフ・ロストロボーヴィチと11年以上にわたり共演、1988年よりムターのリサイタル・パートナーを務める名ピアニストとして知られております。

アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン) ANNE-SOPHIE MUTTER, Violin

アンネ=ゾフィー・ムターは、およそ35年もの間、現代における最も優れたヴァイオリニストの一人として活躍し続けている。ドイツのバーデン州ラインフェルデンに生まれ、1979年のルツェルン国際音楽祭で世界デビューを果たす。一年後、ヘルベルト・フォン・カラヤンとの共演によりザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭にソリストとして登場。以来ヨーロッパ、米国、アジア各地のあらゆる主要なホールで演奏。伝統的な名曲を演奏すると共に、常に新しいレパートリーを聴衆に紹介しており、それらには室内楽と管弦楽の作品が同じ割合で含まれている。また、自らの名声を、慈善プロジェクトや新しい世代の若き音楽家たちの育成のために役立てている。

ドイツ・グラモフォンから発売されている最近の録音; モーツァルト・プロジェクト (生誕250年を祝しモーツァルトのすべての主要なヴァイオリン曲をCDとDVDの両方でリリース)、メンデルスゾーンのCD (生誕200年を祝し録音。ヴァイオリン・ソナタ ヘ長調、ピアノ三重奏曲第1番、ヴァイオリン協奏曲 ホ短調)、「バッハ・ミーツ・グバイドゥーリナ」 (グバイドゥーリナのヴァイオリン協奏曲「In tempus prasens」とバッハのヴァイオリン協奏曲イ短調とホ長調)は、過去と現代の作曲家に対するムターの洗練された関心を良く表している。

また、ベートーヴェン及びブラームスのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏、及びセバスチャン・キュリアー、アンリ・デュティユー、ソフィア・グバイドゥーリナ、ヴィトルド・ルトスワフスキ、ノルベール・モレ、クシシトフ・ペンデレツキ、サー・アンドレ・プレヴィン、ヴォルフガング・リームの作品初演といった業績は、デビュー30年以上を迎えてなおレパートリーを改良・探求し続けているアーティストの姿を映し出している。

国際エルンスト・フォン・シーメンス音楽賞、ドイツ連邦功労勲章一等、バイエルン功労勲章、オーストリア科学・芸術功労十字賞、フランス芸術文化勲章オフィシエ等、多数の賞を受賞。

ランバート・オルキス(ピアノ) Lambert Orkis (piano)

室内楽奏者、現代音楽の表現者、またピリオド楽器奏者として、国際的な名声を得ているピアニスト。故ムスティスラフ・ロストロポーヴィチと11年以上に渉り共演。1988年よりアンネ=ゾフィー・ムターのリサイタルでピアニストを務めている。

ワシントン・ナショナル響の首席鍵盤奏者。同響の首席奏者によって結成されたケネディセンター・チェンバー・プレイヤーズの設立メンバー、スミソニアン博物館キャッスル三重奏団の設立メンバー及びフォルテピアニスト。

リン・ハレル、アンナー・ビルスマ、ハンナ・チャン、ジュリアン・ラクリン、エマーソン、カーティス弦楽四重奏団などと共演する傍ら、ソリストとしてロストロポーヴィチ、スラットキン、デ・ブルゴス、ヘルヴィッヒを始めとする数々の指揮者と共演。ジョージ・クラム、リチャード・ワーニック、ジェームズ・プリモシュなどの作曲家がオルキスのためにピアノ・ソロ作品を書いている。

フォルテピアノ及びピアニストとして数々のレーベルで録音を行い、このうち数作品はグラミー賞にもノミネートされている。ドイツ・グラモフォンより発売されているムターとのベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集でグラミー賞(最優秀室内楽演奏賞)、2006年のモーツァルトのピアノとヴァイオリンのためのソナタのDVDで “Choc de l’annee”賞を受賞。

テンプル大学エスター・ボイヤー音楽カレッジ教授。

その功績によりドイツ連邦功労勲章を授与されている。

アンネ=ゾフィー・ムター 来日直前インタビュー 聞き手:城所 孝吉

いよいよ来日を間近に控えたムターが、今回の来日公演で演奏される曲について語ってくれました。

●現代音楽においては、聴衆を単に魅了するだけでなく、本当に心から感動させることは難しく、稀なことだと思います。ルトスワフスキはそれを実現することのできる、貴重な作曲家なのです。

――ムターさんはルトスワフスキをよくご存知だったそうですね。
そうです。彼は私にとって、現代音楽への扉を開いてくれたキーパーソンでした。80年代の中頃、パウル・ザッハー(スイス人の指揮者で、パトロンとしても名を成した)を通して知り合いました。私は南西ドイツのスイス国境近くで育ちましたが、師のアイーダ・シュトゥッキ(スイスのヴィンタートゥアー音楽院で教えていた)がザッハーの知人だったのです。彼のサロンにはあらゆる現代作曲家が集まっており、ルトスワフスキは1985年、ザッハーを通して《チェインII》(注:ヴァイオリン独奏とオーケストラのための作品)の楽譜を送ってきました。86年にその初演を行ったのですが、これは私にとって人生の分岐点でした。というのは、彼の音楽に感情レベルですぐに入り込むことができたからです。ルトスワフスキの音楽を通して、新しい響きを見つけ出すことができした。私がそれまで意識していなかった音色の可能性を、引き出してくれたのです。当時私は20代なかばで、ちょうどそうした新しい側面を切り開くべき時期にありました。ルトスワフスキは演奏にとても満足してくれ、「ヴァイオリン協奏曲を書いてあげよう」と言ってくれました。しかし彼は様々なプロジェクトを抱えていたので、既存の《パルティータ》(注:ヴァイオリンとピアノのための作品)をオーケストレーションすることになったのです。初演は88年で、録音も行なわれました。
今回日本では、オリジナルのピアノ版を演奏しますが、私のお気に入りの室内楽作品のひとつとなっています。というのは、ルトスワフスキの本質を非常によく反映した作品だと思うからです。例えば彼の個人的な状況を強く反映しています。ルトスワフスキは悲劇的な人生を送った人で、ポーランドの精神的上流階級に生まれました。貴族でしたが、それも当時の情勢では危険で、父親は彼が5歳の時に獄中で亡くなっています。そうした人生の苦悩が、作品のなかに表れていると思うのです。彼は生涯にわたって半音階を多く使用しましたが、それによって感情の高揚を表現していたと言えるでしょう。現代音楽においては、聴衆を単に魅了するだけでなく、本当に心から感動させることは難しく、稀なことだと思います。彼はそれを実現することのできる、貴重な作曲家なのです。
――とてもよく分かります。今年、ベルリン・フィルはルトスワフスキの小特集を組んでいて、私もそのいくつかを聴いたのですが、お客さんは非常に喜んでいました。例えば「管弦楽のための協奏曲」など、拍手が鳴り止みませんでした。
私が前半にドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲を弾いたマンフレート・ホーネック指揮の演奏会ですね。
――そうです。ルトスワフスキは、明らかにお客さんの心に訴えかけるものを持っている、という印象でした。もちろん音そのものは現代音楽で、非常に複雑なのですが、出てくる響きからパーソナルに共感できる音楽なのですね。
逆に言うと、現代音楽の作曲家のなかには、そうでない作品、頭でっかちの作品も多いのですよ。部分的には、19世紀末、20世紀初頭の段階からそうでした。例えば私にとって、シェーンベルクは糸口が見つからない作曲家です。実は最近、彼の幻想曲にもう一度チャレンジしてみました。私は辛抱強く、難しい課題に率先して取り組むタイプなのですが、それでもこの作品に私自身との関わりを見つけ出すことはできませんでした。一生懸命練習しても、何か心に響いてくるものがないのです。これに対してルトスワフスキは、どんなに複雑な書法で書かれていても、彼自身の内面を聴き手や演奏家に対して開示してくれます。
――シェーンベルクについては、ムターさんが率直にそう言ってくださって、嬉しく思います。というのは、私もまったく同じで、彼の音楽への入口が見つからないのです。ニコラウス・アーノンクールは、「シェーンベルクはミューズのキスを受けなかった」と言っています。
そうなんですか。それは名言ですね。キスどころか、出会ったことさえないかもしれない(爆笑)
――ルトスワフスキは、聴いていてより「楽しい」ですね。Unterhaltlicher(よりエンターテイメント性がある)とでも呼べばいいのでしょうか。
Unterhaltung(娯楽。対話という意味もある)というのは、お喋りする、ということです。彼の室内楽を演奏することは、知的で楽しく、深い意味に満ちた対話をすることなのです。メンデルスゾーンは、19世紀前半に既に同じことを言っています。お客さんにとっても、演奏を聴くということは、演奏者と対話することです。音楽を聴いて、何かを感じ取り、吸収するのですから。演奏する側も、お客さんが本当に集中して聴いているかは、すぐに分かります。そこには静かなディアローグが存在しているのです。

●シューベルトの幻想曲は、私とランバート・オーキスのふたりにとって、最も大切な曲に数えられます。音楽家として年齢を重ねれば重ねるほど、意味合いが増してくる作品といえるでしょう。

――日本では、前半にモーツァルトのヴァイオリン・ソナタト長調K.379とシューベルトの幻想曲が演奏されます。
ト長調ソナタは、モーツァルトの生涯において決定的な時期に書かれました。当時彼は、ザルツブルク大司教と喧嘩して故郷を飛び出し、ウィーンで自活する道を選んだのです。ソナタは一夜のうちに書かれ、ザルツブルク宮廷楽団のコンサートマスター、アントニオ・ブルネッティと彼自身により初演されています。その際、完成していたのはヴァイオリン・パートだけで、モーツァルトはピアノを即興で弾いたのでした。このソナタは2楽章という特異な構成で、アダージョの序奏で始まります。第2楽章が変奏曲である点も変わっていますが、実験的作品だと呼べるでしょう。彼はこれ以前にも20曲以上のヴァイオリン・ソナタを書き、変ロ長調K. 454等の傑作に至るまで、ヴァイオリンをピアノから独立させることを試みています。当時のヴァイオリン・ソナタは、「ヴァイオリン付きピアノ・ソナタ」と呼ばれたほどで、ヴァイオリンはピアノの右手の補強でした。ト長調ソナタも、そうした「ヴァイオリンの自立」への途上にある作品だと思います。
シューベルトの幻想曲は、私とランバート・オーキスのふたりにとって、最も大切な曲に数えられます。音楽家として年齢を重ねれば重ねるほど、意味合いが増してくる作品と言えるでしょう。というのは我々は、自分が愛する人々を徐々に失わなければならない宿命にあるからです。この作品の主題は、〈私の挨拶を受けてくれ〉D.741という歌曲から取られており、歌詞は「愛する人から離れて生きなければならないこと」を歌っています。シューベルトの音楽には、常に物語があると思いますが、それは歌詞がついていない器楽作品でも同じなのです。ここには、愛と別離というテーマがはっきりと表れています。普通人々は、チャイコフスキーやラフマニノフの作品が最も難しい、と考えがちですが、それは違っています。シューベルトのこの曲には、ほんの少しの音符しか書かれていません。しかし、ひとつひとつの音に意味があり、少し変えただけで世界が崩れてしまうような緻密さで作曲されているのです。
――シューベルトの場合、音符の意味を演奏家が読み込み、引き出さなければならない、という側面が大きいように思います。私はムターさんの演奏を聴いて、幻想曲がシューベルトの最後の歌曲と〈岩の上の羊飼い〉 D. 965と似ていると思いました。この曲は、10分にわたる長いリートで、クラリネットの助奏を伴います。内容は同様に死と別れをテーマとしていますが、最後に軽やかなアレグロになり、「春が来る、喜びが来る」と希望が表現されます。幻想曲でもメランコリックな変奏曲が、アレグロに変わって終わりますが、希望を求めるシューベルトの思いが表れているように感じました。
バッハは、毎週の礼拝のためにコラールをたくさん書いていますよね。これらは多くの場合、苦しみや悲しみを歌っているのですが、最後に急に長調に変わって、明るく終わります。音調が変わる瞬間は非常に感動的なのですが、偉大な作曲家たちは、そうした希望のモーメントを求め、曲のなかに書き込んでいますね。ベルクのヴァイオリン協奏曲がそうですし、グバイドゥーリナの《今この時のなかで》もそうです。シューベルトのこの作品にも、そうした願いが表れていると言えるでしょう。

●サン・サーンスは非常に面白い経歴の持ち主で、天文学、数学に秀で、さらに詩や絵画でも才能を発揮しています。その作品は色彩美、エレガンスに溢れ、同時に極めて技巧的です。この曲では、ヴァイオリンのテクニックだけを見せるのではなく、ピアノ・パートとの対話、絡み合いが極めて大きな意味を持っています。

――プログラムの最後の曲は、サン・サーンスのヴァイオリン・ソナタ第1番です。この選曲には、ちょっと驚いたのですが……。
サン・サーンスが、“サロン作曲家”とされているからですね。特にドイツでは、そういうネガティブな評価がされています。しかし私は、彼は過小評価されていると思います。サン・サーンスは非常に面白い経歴の持ち主で、天文学、数学に秀で、さらに詩や絵画でも才能を発揮しています。その作品は色彩美、エレガンスに溢れ、同時に極めて技巧的です。ヴァイオリン作品は、チェロ協奏曲、ピアノ協奏曲の影に隠れている観がありますが、非常に魅力的だと思います。ドイツでは、彼のような作曲家を軽く見る傾向があって残念でなりません。例えばコルンゴルトも、ナチスの侵略によりアメリカに亡命して、映画作曲家になったわけですが、それによって彼の音楽の質が落ちたということにはなりません。アンドレ・プレヴィンは、「コルンゴルトがハリウッド的なのではなく、ハリウッドの作曲家たちが、コルンゴルトのスタイルを真似たのだ」と言っています。
――サン・サーンスのヴァイオリン・ソナタは、おっしゃる通り非常に技巧的な作品です。
技巧的ですが、空虚な技巧ではないと思います。というのはこの曲では、ヴァイオリンのテクニックだけを見せるのではなく、ピアノ・パートとの対話、絡み合いが極めて大きな意味を持っているからです。私はヴァイオリンの技術だけを見せるような作品は、ほとんど弾きません。オーキスは本当に素晴らしいピアニストなので、そんなことをするのはもったいないと思います。終楽章は非常に難しい曲で、我々は全力で弾かなければならないのですが、同時にとても楽しい。華麗さ、爽快感を味わい尽くす、というのも演奏の喜びだと思います。ルトスワフスキまでが深刻なプログラムですので、お客さんにとっても、最後に感覚的な喜びが得られることは良いのではないでしょうか。いわばご褒美ですね(笑)。
――今回の来日では、ムターさんが聴衆に語りかける演奏会がありますが、これも「ご褒美」でしょうか。
招聘元のアイディアです。私により親しみを持ってもらう、という考えからです。
――面白いのではないでしょうか。日本では、ムターさんは「ヴァイオリンの女王」と呼ばれているので、お客さんは気さくな人柄を知って、驚くと思います。
それは知りませんでした。でもこの通り、全然いかめしくないでしょう?皆さんが私の素顔を知って喜んでくださるのであれば、いい機会だと思います。人々にポジティブな驚きを与えたい、というのは、演奏家としての私のモットーですから(笑)。

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